この原稿は『天気の子』と『雲のむこう、約束の場所』の重要部分と結末に触れています。



自分の中で一番大切なものを見失わないこと。それがたとえ、ほかの人たちに一切理解されないとしても。

『天気の子』を見て、同じ新海誠監督が15年前に監督した『雲のむこう、約束の場所』を思い出した人が多いようだ。

確かにこの2作品が描く物語の構図には共通点がある。共通するのは、どちらもヒロインの存在と世界の安定が天秤にかけられるという点
それに伴い、主人公が「ヒロインか世界の安定か」決断を迫られる瞬間も登場する。

だが、同時にこの2作品は決定的に異なってもいる。異なっているのは「自分」と「世間」の関係性だ。この点を意識すると、『天気の子』がどのような映画かがより実感できるようになる。

『雲のむこう、約束の場所』のヒロイン・サユリは中学とはいえ年生の夏から、3年間ずっと眠り続けている。
それは実は、北海道(作中ではユニオンという勢力の支配下にあり「蝦夷」と呼ばれている)に建つ「塔」に原因があった。

詳細な設定は煩雑なので省くが、サユリが眠り続けることによって、「塔」の能力の及ぼす範囲は抑制されているのだ。
もしサユリが目覚めれば、この範囲が拡大して、世界は危機に陥ってしまう。

だから主人公ヒロキが、中3の夏に果たせなかった約束を果たせばサユリは目覚めるはずだ、と行動を始めた時、友達のタクヤは「サユリを救うのか、世界を救うのかだ」と拳銃をヒロキに向けることになる。

 とはいえ、映画の中でクライマックスを盛り上げるのは、この二者択一から生まれる葛藤ではなく、大人たちの「塔」に関する様々な思惑もあり、ヒロキは最終的に塔を壊す役も担うことになる。塔を壊してしまえば、サユリが眠り続ける必要もない。

つまり、ヒロキの非常に個人的な願いが、周囲の思惑を利用する形になり(あるいは周囲がヒロキの個人的な願いを利用して、ともいえる)、本来なら世界を壊しかねないヒロキの強い願いが、社会的に問題のない形に着地するように物語は構成されているのだ。

大人という世間の一部を描きながら、本作があまり世間を描いているように感じられないのも、このように最終的にヒロキの願いと世間の思惑が合流してしまう点にある。

どうしてこのような構成になっているかといえば、本作の主題が、先述の二者択一を描くところに置かれていないからだ。

本作はサユリを取り戻すという一見ハッピーエンドに見える構造の中に、取り返しのつかない喪失(眠り続けるサユリとヒロキの間で共有されていた"夢"、そして3人で憧れていた「塔」の存在、この2つがクライマックスでともに失われてしまう)があることを描くことこそが、重要なことだからだ。

なお、こうした喪失感は、『星を追う子ども』までの新海作品には重要な要素だったし、"ベスト盤"と言い表される『君の名は。』にも変奏されて組み込まれている。

これに対し、『天気の子』の主人公・帆高は徹頭徹尾、世間とぶつかりあわざるを得ない少年だ。
それは序盤から明確で、家出少年でかつ未成年の帆高が、身分証明なしで夜の街で働こうとして、ことごとく失敗するという描写からして明確だ。
たまさか弱小編集プロダクションを経営する須賀が、“ライ麦畑のキャッチャー”として帆高に手を差し伸べなければ、帆高はどうなっていたかわからない。

こんなふうに世間の“当たり前”からはぐれてしまった帆高が、やがて「100%の晴れ女」である陽菜と出会う。
帆高たちは、雨ばかり続く異常気象の東京で、「晴れ間」をデリバリーする仕事を始める。

ここで重要な点は、陽菜がこの能力を手に入れた経緯を知っているのは、(作中で描かれている範囲だと)陽菜自身と、彼女からそれを打ち明けられた帆高だけということだ。
廃ビルの屋上にある祠の前で陽菜に起きた神秘体験は、非常に個人的な体験でかつ非常識な内容だから、基本的に世間と共有することはできない。

これは『雲のむこう~』のサユリの能力が、科学の対象で、客観的にオーソライズされる一方で、世間にまったく知られていないことと好対照をなす。

陽菜の能力は、世間の人を手助けするという形で社会にコミットするものの、その能力の根源は共有不可能なとても神秘的な領域に留まっている。
サユリのことを考えるということは大人たちと問題を共有することに繋がるが、陽菜の神秘体験を信じることは、むしろ常識的な大人たちとの距離を際立たせることになる。

陽菜は両親とも死んでおり、彼女と弟・凪との二人暮らし。そこに家出少年の帆高を加えた3人にとって、陽菜の「晴れ女」の能力は、子供たちだけで疑似家族のようにささやかに暮らしていくにはとても重要なものだった。

もちろん行方不明届が出されている家出少年は保護されるべきだし、両親のいない姉弟は児童相談所なり福祉のケアを受けるべきで、それが正しいことだ。
子どもたちだけで擬似家族のような生活を営もうというのは現実の世間の中では夢でしかない。

だが帆高たちはそこに背を向ける。自分たちが暮らしたい場所はそこではない、という“子供っぽい”直感がそこにはある。
だからこそ陽菜の力は、この幸福な聖域(アジール)を守る希望でもあったのだ。

帆高は世間が正しいことを十分に知っている。それが観客にもわかるように、仕事を通じて様々な人と出会った帆高の姿を描いているのだ。
だからこそ、この世間とは相容れない、自分たちの聖域を守ろうとするならば、「あえて間違う」しかないのである。

この帆高の「あえて間違う」姿勢は序盤から一貫している。
まず帆高は、「(陽菜と)話はついている」というスカウトから、それでも強引に陽菜を連れて逃げようとする。そして追い詰められて、偶然手に入れた銃を取り出して撃つ。銃を使うことが非合法なことぐらい帆高でも知っている。
でも、たいして喧嘩が強くない帆高が、チンピラ風のスカウトから陽菜を助け出すには、そうするしかなかったのだ。

そして、この構図はクライマックスでもう一度反復される。
須賀や警察官と対峙した時に帆高は、やはりあえて拳銃を構えるのである。これは若さゆえの暴力衝動の発露ではなく、自分の中で大事だと思ったことを実現するためのギリギリの判断なのだ。

そしてこの延長線上に、陽菜を救うという帆高の最後の決断もある。
天気を操ることができる「天気の巫女」の伝承は、最終的に「巫女」が消えることで天気の異常が収められる、ということを伝えていた。
そして実際、陽菜の体には異変が起き、そして消えてしまう。

帆高は、最終的に異常気象が収束することよりも、陽菜を助けることを選び、それを実行する。
帆高は、長い雨が止むことで世間の人が喜んでくれる人がいることをちゃんと知っている(その代表的人物として須賀と老婦人の冨美が配されている)。
そしてそういう人を幸せにするということが正しいことを知りながら、陽菜を助けるという「あえて間違った」判断をする。

大事なのはこの時、帆高は世間から「世間全体を幸せにするほうが正しい」という意見を改めて押し付けられて、二者択一を迫られたわけではないということだ。
そもそも陽菜の神秘体験を知らない世間(特に警察)は、帆高の二者択一そのものなどまったく関心を払わない。
帆高の決断の重さは、彼しかその重大な決断の意味を知らないところから生まれている。

幸福な夏の思い出という聖域から発した、個人的な願い。それが世間(=自分の預かり知らぬ大人)の思惑と合致してしまった『雲のむこう~』。
これに対し、『天気の子』は、「あえて間違うこと」でしか世間から自分たちの大事な聖域を守ることができない物語で、見事に作品の持つベクトルが逆方向なのである。
『天気の子』が切実な物語として観客に迫ってくるのはこの点だ。

これから先、日本社会の行く先が厳しいものになるであろうという情報はさまざまなところで飛び交っている。
では、そんな時代にどう生きていけばいいのか。

そこについて、本作は「あえて間違う」というフィクションでしか描けない逆説的な正しさを通じて、メッセージを発している。
自分にとって何が一番大切なのか。それを見つけること。

それは誰にも理解されなくても、世間と一切共有できないもので構わないのだ。
それを見つけたら、しっかりと握りしめて心の北極星にすること。

そうすれば大丈夫だ、とこれからを生きる多くの人にエールを送って、本作は締めくくられるのである。

[藤津 亮太(ふじつ・りょうた)]
1968年生まれ。静岡県出身。アニメ評論家。主な著書に『「アニメ評論家」宣言』、『チャンネルはいつもアニメ ゼロ年代アニメ時評』、『声優語 ~アニメに命を吹き込むプロフェッショナル~ 』がある。最新著書は『プロフェッショナル13人が語る わたしの声優道』。各種カルチャーセンターでアニメの講座を担当するほか、毎月第一金曜に「アニメの門チャンネル」(http://ch.nicovideo.jp/animenomon)で生配信を行っている。
《藤津亮太》